2014年1月13日月曜日

看取りのアプリ

まだ開発中で試行錯誤が続いているので詳しいことは言えないのだけれど、看取りに関するスマホアプリを作っている。

「看取り」とか「終末期」とかの言葉尻からは、お先真っ暗なイメージを持ってしまう人も多いけれど、人生のフィナーレなのだから本人の好きなように緞帳を下してあげるのが僕ら医療者の仕事なんだろうと思う。クラシックのコンサートなら、演奏が終わった瞬間、われ先に「ブラボー!」と叫ぶ御仁がいるけれど、僕らも内心そういえるように患者さんの人生の閉じ方を演出できればと思う。

そんな役に少しでも立てば、というアプリなのだけれど、イラストが必要になった。私は図工も美術も成績が2(ほんとは1だがお情けで2)だったので、絵心はまったくない。胸部レントゲンのスケッチぐらいなら得意だが、イラストなんて及びもしない。

そんな中、ツイッターでお願いしたところ、快くイラストをお寄せいただいた。

Kage(@877_727)さんの作品

1/10の深夜にお願いしたら、なんと翌朝にはお送りいただいたので、夜遅くまでかけて描いてくださったのでしょう。なんともありがたい。

引き続き、心温まるイラストを募集していますので、mhlworz@gmail.comまでお寄せください。
ブログやアプリに掲載させていただきます。
(著作権は描いていただいた方のものですが、当方から対価のお支払いはできませんのでご了承ください)

2014年1月8日水曜日

DNARの裏の意味

◯DNARとは

入院した患者さん、あるいは家族からDNAR(do not attempt resuscitation)の承諾をもらうことがある。病院によってはDNR(do not resuscitation)というかもしれないが、こっちはやや古い言い方のようだ。言葉の詳しい定義や背景は日本救急医学会のwebをご覧いただきたい。

高齢者医療に関してDNARといえば、ぶっちゃけた話、「息が止まってたら、そのまま蘇生なんかしないで死亡確認しますけどいいですよね?」ということを意味する。承諾をもらうときには相手をみて、「深夜の巡回とかで見つけて・・」とか、飲み込めるような具体的なシチュエーションを枕詞にして、ショックを和らげる工夫をする。信じられないことなのだけれど、爺ちゃん婆ちゃんが無限に生き続けるかのように思っている家族が案外多いからだ。入院したらヒットポイントのゲージが満タンになって帰れるかのように錯覚する人も多いし。

医者の本音としては、病院で大勢のスタッフの目の前で倒れた若い人ですら蘇生は容易でないというのに、息も絶え絶えの高齢者は蘇生したって厳しいのは目に見えているので、あまりやりたくないのだけれど。


◯ 今夜も眠れない

当直をやっていると、褥瘡だらけで関節もガチガチに拘縮して、どうみても2週間以上前からメシがほとんど食えてなかったと思われるのに、「急に具合が悪くなったんです!」と言い張って救急車呼んできた、もはやカウントダウン状態の高齢者がくることも多い。自分はそういう老人は入院する必要なんてないと思っている。老衰に抗うことができる治療なんて申し訳ないが、ないんだもの。本人の意志を尊重して自分の家で看取ってもらうのがスジじゃないかと思うのだけれど、救急車で来た患者を家に帰すときには少なからずトラブルになる。

こういう人たちを相手に、夜中の3時とかに、こんな不毛なやりとりを何度と無く繰り返してきた。

ぼく  「寿命なので病院でやれることはありません。連れて帰ってください」 
家族A 「心配なんで入院せさせてもらえませんか」
家族B 「うちらも仕事してるんで、日中こんな年寄りがいたら困るんです」
家族C 「お前ら税金(筆者注:医療費への税金投入のことらしい)で飯食ってんだろ。患者の家族が言うことにどうして従わねえんだ」
ぼく  「病院は医療が必要な人が入院するところです。老衰は治りませんので・・・」(最初に戻る)

救急車よりも先回りして病院に到着して、当直医をどつくほど元気な家族だったりするから、多勢に無勢というところはあるが、筋はきっちり通さねばいけないと思う。だけれども、僕のつたない交渉力ではどうしようもなくて、「経過観察」名目で入院となることもある。全例そうしているわけではないことは、自分のちっぽけな名誉のために強調しておくけれど。

そんなときには、「入院中に死ぬかもしれませんよ」と直截的に言い、「心臓や呼吸が止まったら蘇生を希望しますか」とも聞く。だいたいの家族は「蘇生って何ですか」と聞き返すので、「心臓マッサージや気管挿管、薬の投与などです」と答える。だいたい救急車で死にかけた老衰の人を送ってよこす家族は、「そこまでしなくていいです」とこともなげに言う。

治療(と言っても老衰に治療などないが)の内容についても、突っ込んだ話し合いをしていく中で、「点滴はしなくていいです」「酸素、いりません」というので、「じゃあなんで連れて来たんですか」と聞くと、「いやー、家で死なれると迷惑なんで。うち借家なんで、大家さんにうるさく言われるとアレなんでー」なんてホンネが聞ける。よくある話だけれど。

僕らからすれば、「一生懸命の治療をしたうえで、それでもどうしようもないときには、それ以上ご本人に鞭打つのはひどい話なので、蘇生処置はしません」というのが本来のDNARなんだろうと思う。だけれども、老衰の人を連れてきた家族なんかからすれば、「蘇生なんてまっぴら御免だし、とにかく治療もしなくていいから病院でさっさと枯らしてほしい」というものなんだろうと思う。


○病院は死ぬ場所か

しつこいけれど、病院には老衰の人を連れてきてほしくはないので、かかりつけのドクターに往診なり訪問診療をしていただくのがベストだと思う。ベテランの先生だったら、本当に見事に「枯らし」てくれる。点滴で水膨れになることもなく、棺から水が垂れることもない。水分が抜けて軽くなった遺体を持ち上げて、その軽さに家族が感極まって落涙するとも聞く。石川啄木の短歌みたいなものだろう。

かなり前になるけれど、僕が学生の頃、東京都監察医務院に見学にいったことがある。いわずと知れた法医学のメッカである。東京23区で医療機関が絡まないで亡くなった人には、監察医の先生が車に乗って現場に検視に行く。法医学教室の事件ファイルとかテレ朝の刑事ドラマみたいなケースはほとんどなくて、高齢者の孤独死がほとんどだった。
警察署のモルグで監察医の先生がポロっと言っていた。「かかりつけの先生がいたら、警察が臨場して俺たちが検視にいくような大ごとにはならなくて済んだんだろうにね」と。

2014年1月5日日曜日

その気になれば

爺ちゃんが寝たきりになった。寝たきりだけど病気ではないので、入院はさせてもらえない。介護というけれど、面倒を見るためにもカネが要る。マンションの家賃とか、金利や株式配当みたいな不労所得があるわけでもないから、稼ぐためにはパートに出かけなければならない。でも、家に寝たきり老人を置いて行って、目を離している間にもしも死なれでもしたら警察沙汰。介護施設に入れるカネもないし、特養なんて何十人待ちかわからない。。

そんな気の毒な人が最近増えている気がする。

こういう時に「枯らす」技術の出番となる。

もちろんその気になれば、僕ら医者は高齢者の寿命を縮めることだっていくらでもできる。目の前で死なせることは技術的には造作もない。でも、やらない。医師免許を棒に振って、刑務所に入ってまで尽くしたい患者さんなんて、申し訳ないがいないもの。

これまで安楽死のために医者が手を下した事件では、医薬品を使っている。東海大学安楽死事件で使われた塩化カリウム、川崎協同病院事件で筋弛緩薬などだ。けれどもこうした薬品を使えば証拠が残るので、警察にタレ込まれて司法解剖になれば血液を分析すればすぐにバレる。死後、血液中のカリウムは上昇するので、塩化カリウムを急速投与して不整脈を起こして死亡したことなんてわからそうなものだけれども、それは素人の考えなんだそうだ。科捜研がその気になればカリウムの出所を突き止めることもできるんだそうだ。「画像診断一発で死因がわかる」だなんていう小説家にこっぴどく言われているけれど、日本の警察も法医学教室も優秀なのだ。

やるかどうかは別として、完全犯罪を目指すとしたら、たとえば、

・ 日ごろから水分を引き気味に管理していた患者に点滴をありえない速さで落とす。(心不全)
・ 呼吸状態の悪い患者の酸素投与を操作する。COPDの患者だと酸素をありえない量で投与すると、CO2がたまって呼吸停止する。肺炎の患者とかの酸素を止める。(呼吸不全)

こうしたテクニックを使ったとして、入院管理中に予期せぬ死を迎えた場合には、病院の管理責任が問われる。デスカンファレンスといって死亡症例の検討を行う病院も少なくない。病院内ではいつも誰かの目が光っているので、看護師さんのみならず、相部屋の患者とかからも事情聴取がなされる。そんなリスクを冒してまで、主治医が高齢者を「枯らす」というか「逝かせる」ことはまずないわけだ。
さらに、2014年の国会では医療法が改正されるようなので、これからは医療事故調査委員会が発動して調査しにくることになりそうだ。ますます病院で「枯らす」ことは難しくなるといえよう。

仕方がないので、枯れていくプロセスの中に死をビルトインすることが、問題が表面化しないコツだろう。これからはそのための方法論を書いていくことにしよう。

「高齢者施設から救急搬送されるとどうなるか」

質問をいただいたので、お答えしていこうと思います。随時お答えするので、普段からの疑問などをお寄せいただければありがたいです。思いついたら、当ブログのコメント欄にでも書き込んでください。

==引用始まり==

初めまして。ツイッターではフォローさせていただきお話を読ませていただいております。「枯らす」技術そのものも興味深いのですが、高齢者施設に勤務する自分の仕事上、気になっていることがいくつかあります。

もしも高齢者を救急搬送して「延命希望」と家族が言った場合、どのような処置(治療?)が為されるのでしょうか。ご家族の意向を確認するときに、必ずこの話になるわけですが、家族がもしものときは救急搬送をと希望されていても、正直なところ救急搬送しても病院からは叱られ、入院にもならず戻ってくることもしばしばです。家族は、施設では無理でも病院なら助けられると漠然と考えているような面もあり、うまく説明できずにいます。90歳も越え、肺炎を繰り返すような状態で、何度も搬送すること自体が体力を奪っていくようにも感じます。

また、施設で看取る場合も、家族は何故か点滴を過大評価しており「ともかく点滴を続けて欲しい」という希望を示されますが、使える血管が次第になくなり、身体が水分を処理しきれなくなっているようにも感じる状態で、この点滴が本人を苦しめているのではないのか、という疑問も生じてきます。

私の知識不足に問題があることを承知で、不躾な質問を書いてしまいましたが、高齢者の救急搬送・延命処置についてと終末期の点滴の継続のについて、よろしければ教えていただければ大変うれしく思います。家族のエゴで本人が苦しむのは避けたいところですが、いわゆる「本人にも良かれと思って」という気持ちで誤った選択が横行しているのならば、そのことを面談など通して伝えていきたいと考えております。どうぞお時間があるときでけっこうですのでブログで取り上げてくだされば参考にさせていただきたいと存じます。よろしくお願いいたします。 



==引用終わり==


要するに、「高齢者の施設にいる老人を救急搬送したら病院で何をされるのか」という施設職員からのご質問。アカデミックな回答はEARL先生のブログが詳しいのでご一読願いたい。http://drmagician.exblog.jp

一方、なるべく平易に一般の方でも直感的にわかるように、というのがこちらのブログの趣旨なので、ベタな臨床医がどう対応するのかって観点でお答えする。横道にそれるのはご愛嬌。


◯ 医者は「どこまで頑張らなければならないのか」とまず考える。

・90歳、意識消失。認知症で不穏、多発性脳梗塞で症候性てんかんで内服中。
・87歳、誤嚥性肺炎。脳梗塞で嚥下障害あり。
・93歳、尿路感染症。寝たきり、褥瘡あり。

みたいなのが高齢者施設からの搬送の典型だと思う。消防本部から救急要請の電話が来たらそりゃ受けるけれど、救急車から降りてきた家族に、「ご家族はどこまでの医療を希望されてるんですか」と聞いて、あまりにあっけらかんと「できることは全部やってください!」と言われても「はあ・・」となるのが多くの医療従事者だと思う。

逆に、93歳、心肺停止。ってのは蘇生処置をしても戻ることはほぼないので、搬送されてきてもがっかりだけれども、家族が納得するためのパフォーマンスと割りきって蘇生を行う。本当は特養とかの医師が死亡確認してくれたらいいのにと恨めしく思う。ちなみに、こういう人が担ぎ込まれてきて、「家族の希望」で心臓マッサージ(心マ)などを始めると、スタッフは悲惨である。胸を深く素早くリズム良く押すという、良質な心マを続けるにはせいぜい数分が限界で、僕みたいな非力な医者はすぐに選手交代しなければ続かないほどしんどい。屈強な救急隊員でも汗だくになるほどハードである。

すでに死んでいるような高齢者に、心マして点滴してクスリを入れて蘇生を試みても、効果が期待できないばかりか、心マで肋骨が折れたり、挿管で歯が折れたり、あちこちに点滴を刺されてあざだらけになったりして無残な姿になるばかりだ。スタッフも仕事だからやるけれども、そうやって家族が呼び入れられて、「蘇生を試みましたが無理でした。残念ですが、◯時◯分、死亡確認です」と告げられて高齢者は人生を閉じる。宣告後、「爺ちゃんよくがんばったね」と亡きがらに取りすがる家族には、正直言って違和感を感じる。爺ちゃんを最期まで傷めつけてすっきりしたのはあなた自身ではないのか。医者に何かをしてもらった、というか何かをさせた、というカタルシスは得られただろうが、爺ちゃんは果たして本当にそれでよかったのでしょうかね、と僕はいつも後味が悪い。

「夕飯を食べて横になって消灯の時間に介護職が巡回すると静かに寝ているが息をしていない、これは大変だと夜勤の看護師に相談し、救急要請」ってのがそもそも余計なお世話だと思う。僕なんかに言わせれば、特養といった高齢者施設にいる人は、いつ死んだっておかしくないほどの高齢者が大半だと思う。それを寿命というのだ。死亡確認すらできない施設だというのが気の毒だけれども、人が亡くなるのを見届けたことがないような介護職しかいない施設や医者のやる気がなかったりすると、「死にそう?そりゃ救急車呼んどけ。家族にはできるだけの対応をしてもらうために搬送しましたって説明しとけ」というのがマニュアルになってしまうんだろうなとも思う。

そんな責任転嫁で「もう寿命でしょ・・」って人を救命救急センターに運んできたって、そりゃ病院としては「はぁ?」となる。救命センターは多発外傷とか心筋梗塞とかの文字どおり瀕死の人の命を救う砦であって、老人の「延命センター」ではないので、丁重にお引き取りいただくほかない。


◯ 延命希望で行われる処置

ご質問のケースでは、「肺炎を繰り返す超高齢者で、救急車で搬送して病院を受診するも帰される程度で、家族は点滴を希望している」というありがちなパターンである。そもそも入院する必要がない状態なので、詳しい事情はわからないけれど、自分なら点滴もしないで帰す症例だと思う。

日本は不思議な国で、点滴をすれば良い医者で、なにもしないで帰すとひどい医者と悪しざまに言われる。前のエントリーでも書いたけれど、不必要な点滴なんてしないに越したことはない。とにかく点滴をしてくれるという心優しい整形外科の診療所で院内感染が起きて、死人が出たケースもある。http://idsc.nih.go.jp/iasr/30/348/kj3481.html )

「救急車で来たけれど軽症なので帰したいが、すぐに帰すと家族がやかましくて・・」という時に間をつなぐために点滴をすることもないわけではない。だけれども、不必要な点滴は血管内の水分を増やして心不全につながったりするので、普通の医者なら厳に慎むと思う。家族がイノセントに「点滴すれば元気になる」という「点滴教」を信じ込んでいるとその考えを改めることは僕らにも難しい。

とはいえ、食えなくて干からびた老人には必要があれば点滴をする。末期がんの緩和ケアはいろいろ研究がなされていて文献も豊富だけれど、老衰で枯れていく人をどうしたらよいかについては、あまり成書も出ていない。英語の文献はいくらかあるけれど、著作権云々が面倒なのでとりあえずwebのリンクをご参考までに。

http://ameblo.jp/setakan/entry-10933480443.html (大津秀一先生のブログ)
http://www.jspm.ne.jp/guidelines/glhyd/2013/pdf/02_07.pdf (日本緩和医療学会)
http://www.pharmis.org/jp/cancerpain/7.2.htm(東京薬科大学医薬品情報解析学教室)

ごく私的な経験からすると、食えなくて脱水になってくると一日中眠るようになり、苦痛はほとんどないように思うし、点滴でジャブジャブにするよりも水分を控えめに管理したほうが、長生きしているようにも思う。

昨年つくったマンガがあるので、参考になれば幸いです。
https://drive.google.com/file/d/0B8-ywYuJCx8BaHJDT0pvdEdjU3c/edit?usp=sharing
https://drive.google.com/file/d/0B8-ywYuJCx8BYUd3aUlKekFHczA/edit?usp=sharing

2014年1月4日土曜日

「枯らす」技術

仕事の合間にツイッターでぼやいていると、反響が多いツイートは、決まって看取りとか終末期に関するもの。

「『寿命のろうそくがもうすぐ燃え尽きそうだね』って状態で、老健や特養から救急車で運ばれてくる人は多いけれど、うちら医療従事者にできることなんておのずと限界がありますよ。いつまでも元気でいると思っていると足元をすくわれることになりますよ。人生どうやって閉じたいかあらかじめ家族で話しあっておいてくださいね」ってことを伝えたいという僕の願いは、誰かに届いているのだろうと思う。少しずつフォローしてくださる方が増えてきてありがたいことだと思っている。

別に自分よりも立派な医者や看護師さんはごまんといるわけだけれども、田舎勤めのしがない医者として僕が診ている患者さんやその家族がどうやって最期の日々を過ごしているのか、守秘義務にひっかからない範囲でぼやかしてお伝えするのにもきっと意味があるのだろうと思って続けている。

で、「格好のよい終末期の過ごし方」みたいな本は世の中にあふれてきていて、あえて僕のツイッターなりブログなりでトレースしなくたっていいだろう。

含蓄のある話やきちんとした臨床の実践は、緩和医療医 大津秀一先生 http://ameblo.jp/setakan/ とか鎌田 實先生http://www.kamataminoru.com/index.html とかの著書なりwebを参考にしていただくとして、このブログでは大御所があえて書けないことを書き散らかしてみようと思う。

それは、どうやったら「枯らす」ことができるか、だ。

救急車で運ばれるような病院に入院したら医療費に加えておむつやティッシュ、食事代などでかなりの金額が飛んでいく。急性期病院から出て行ってくれと言われて療養型に行っても同じこと。老健、特養と介護施設を回っていくなかでもどんどん金はかさんでいく。景気が悪い中で月々ウン十万円も老人に払える家庭なんてそうそうない。いくら貯金していたって足りないぐらいだ。

すごくドライに割り切ると、働き盛りや小さい子供を抱えた家庭が、老人につぎ込める金額なんて知れている。金がかかればかかるほど、どんなにお世話になったお年寄りも「金食い虫」として憎悪の対象に代わるし、何よりこれから生きていかなければならない人たちの財産が失われることになっては、何のための老人介護なのか訳がわからない。いっぱいお金を使ったけれども、家族が職を失ったり貧乏になっては老人が亡くなった後も不幸が続くことになる。

そういう悲惨な家族をそれなりの数見てきた医者としては、「医者にこういうお願いをすれば、こういうことをされて、その結果どれぐらいで逝きますよ」っていう知識を身につけてもらいたいと思う。遅かれ早かれ旅立つ定めの老人と、老人が死んだ後も生きていかなければならない家族とが現実的に折り合う点が、僕ら医療従事者にできるベストな看取りだと思うから。

「食べれないので点滴してください」 外来編1

○夜中の救急外来にて

90歳近い爺ちゃんを家族が連れてきて、「先生、うちの爺ちゃん、2週間前からほとんど何も食べていないんです。点滴してやってもらえませんか」というシチュエーションは、医者なら誰でも遭遇する。とりわけ最近そんなケースが増えているように思う。
僕らも人間なので、「ずっと前から具合が悪いんだったら、明るいうちに連れてきてよ」と思いつつ、でも「わざわざ夜中に連れてくるからには、きっと見るに見かねる何かがあったのだろう」と考えて診察し、脱水と思えば点滴をしてみる。

診てみれば、認知症でもともと食欲はない人で、家族やヘルパーさんが柔らかくした食べ物を口までもっていって、ようやくモグモグと飲み込むだけの人だったりする。ヨーロッパの文化圏では自分の意思で、自分の力で食べなくなった老人は、もう生命体として枯れるがままにそっとしておくというのだけれど、日本は強制的に食わせるのが介護だと思われている節があって、嫌がるのに口をむりやりこじ開けてスプーンで流動食を流し込むようなことがまかり通っている。

自分の倫理観としても、「自分で食えなくなったら人は終わり」だと思っているので、家族がいくら望もうが高齢者自身が望まないことをやりたくはない。口に出せなくても食べない、というのは立派な意思表示だと思っている。

「口から飲めるならポカリとかアクエリアスとか飲んだ方が安いし、針も刺されず痛い思いもされません。OS-1などは飲む点滴といわれるくらいですのでお勧めです。今は夜中なのであまり検査とかもできませんので、また明日来てもらうことになりますし」とやんわりと思い直すようにいうけれど、家族の点滴信仰はかなり根深いので、「点滴するまで帰りません!」とか言われてしまう。

ただ、医療漫画の名作「ブラックジャックによろしく」でも出てくるが、500mlの点滴を1本ばかり入れたところで、ブドウ糖21.5g(ソルデム3A)しか入っていないので、86kcalとおにぎり1個分にもならないことは思い出してもらいたい。http://www.info.pmda.go.jp/downfiles/ph/PDF/470034_3319510A4083_1_03.pdf

そんな気休めにしかならないような点滴だが、夜中に押し問答をしても誰の得にもならないので、厚労省様には殺されるが、押し切られて点滴をしてしまうこともある。

お値段としては、輸液製剤126円と点滴注射 95点(950円)、初診なら270点(2700点)、深夜加算で480点(4800点)などがつくので、1万円近くになる。ありがたいことに健康保険のおかげで後期高齢者だと1割負担だったりするから窓口では1000円も払わないで済むけれど、その分誰かのフトコロが痛んでいることには変わりないのだけれど。

点滴したからと言って認知症や老衰が治るわけもないので、多少の水分を補う程度でお茶を濁し、そのままお帰りいただくこととなる。日中は仕事をしている家族が意を決して爺ちゃんを連れてきた場合には、「家では面倒を見れない。入院させろ。何かあったら責任とれるのか。」と入院させる気満々で、これまた押し問答になるわけだが、脱水だけで入院させていては、救急用のベッドが埋め尽くされてしまって地域の救急医療が回らなくなるので、当直医の良心にかけて丁重にお断りすることになる。

重症の人が入るはずの病棟が寝たきり老人だらけとなってしまって、重症で本当に入院が必要な患者が受け入れられなくなるという事態は避けたい。なにより仏心を出して入院させると、弱った高齢者はみるみる弱って本当に動けなくなるので家には帰せなくなる。というか家族が引き取りを拒否するようになる。「ようやく病院に放り込んで介護の負担が減ったんだ。多少のイヤミぐらいには耐えてやる、逃げ切れば勝ちだ」みたいな。そうした文脈で、よく家族からは、寝たきり老人に「元通りになるまでリハビリしてください」といわれるのだけれど、80歳、90歳の高齢者に筋トレしてマッチョになれ、というぐらいの話であり、現実味がない話だとわかってもらえたらと思う。無理を知っていて僕らに頼んでくるとしたらかなり筋が悪い。

そうやって、退院できなくなった寝たきり老人は病院に滞留し、ベッドをふさぐ。だから単なる老衰の患者はなるべく入院させたくない、というのが中核病院に勤める医者の心理。「夜中は人が少ないからガードが甘いはずだ。だから夜中の救急外来に連れていけば、老衰の爺ちゃんを入院させてもらうのなんて楽勝」ってのは、僕らの使命感と責任感からすれば、決して許されるものではないことがわかると思う。相手がそういう態度なら、こっちもそれなりのファイティングポーズで臨むだけの話。


○老人が飯を食わなくなったら

まずは身近な開業医の先生に相談していただきたいと、勤務医だてらに思う。喰えないだけなら介護保険じゃないかというのもごもっともだけれども、介護保険の手続きには主治医意見書ってのを書いてもらう必要があるので、かかりつけの先生とよく話し合ってもらいたい。

また、介護保険の手続きはいかにもお役所仕事というか、かなり悠長なものだ。認定調査が来るのも役所に申請してからだいぶ先になるし、認定審査会がせいぜい月1回とかしか開かれない。介護施設にもすぐに空きなどあるわけもないので、要介護4とか5とかがついたとしても、いつまでたっても行き先が決まらない。だから救急病院としては寝たきり老人は受け入れたくないという側面もある。(※要介護認定が正式に出る前からサービスは使えるけれど、普通は施設が渋る)

くどいけれども、「老衰で喰えなくなった」という高齢者をどうしても入院させたいときには、いきなり救急病院には連れて行かないことを重ねてお願いしたい。


愚痴めいた話ばかりになって、このエントリーは実用性がなかったかも、と書き終わってから反省。
次は「点滴をしないとどうなるか」を書いてみようと思う。