2019年5月2日木曜日

キリコ先生に学ぶ「安楽死」

世間では10連休ですが、私たち医者はそうでもありません。病院の業務が待っています。当直の合間に「Dr.キリコ~白い死神」を読みました。白い死神、といえば旧ソビエト軍の兵隊数百人を撃ち殺したフィンランド軍のスナイパー、シモ・ヘイヘですが、今回はキリコ先生です。


●キリコ先生のマイルール

手塚作品の名作「ブラックジャック」に出てくるキリコ先生は、安楽死の名手ですが、スピンオフの作品が出ているのでチェックしてみたわけです。

キリコ先生はポリシーがはっきりしていて、「安楽死はお手軽な自殺ではない」とのもと、3原則をうたっています。

1 本人に回復の見込みがない
2 生きているのが苦痛であること
3 本人が死を望んでいること

ちなみに、東海大学病院の安楽死事件(1995年)では、4つの条件を満たさない場合は、違法性が阻却されず違法であると裁判所が判断しています。

1 回復の見込みがなく、死期の直前である。
2 患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる。
3 患者が自発的意思表示により、寿命の短縮、今すぐの死を要求している。
4 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために可能なあらゆる方法で取り組み、その他の代替手段がない

1~3はキリコ3原則とほぼ同じですが、4つ目のハードルがかなり高めです。
「代替手段がない」なんてのは、検察がちょっとやる気出して、そのへんの大学教授をつかまえて、「主治医が不勉強で努力が足りない。今の医学水準では考えられない」だのと、法廷で証言させれば、いとも簡単に否定されてしまうことでしょう。日本の刑事裁判で原告の主張が認められることなど期待できませんしね。


●老人は安楽死の対象か

介護施設などから運ばれてくる、私たちがよく見る高齢者はこんな感じです。

・肌着すら袖を通せないほど両手両足がカチカチに変形
・思っている事も言葉に出来ない
・寝たきりで歩くこともないため、荷重がない足の爪が丸くなり、周囲に食い込んで痛そう
・背中や臀部、かかとなどいたるところに褥瘡ができて痛そう。そこも容赦なく、ゴシゴシ洗浄されて薬を付けられる
・痰が溜まれば鼻からカテーテルを突っ込まれて、ゲホンゲホンと咳をしながら吸引され、吸引中の低酸素や激しい咳で苦しい思いをする。
・栄養剤に繋がれて、いつ果てるともなく生かされ続ける

もう見るからにゾンビとなって生きているので痛々しいですし、こういう人に医療行為を続けるのもためらわれるのですが、変に仏心を出して手を下せば殺人犯です。「なんだかなあ」と思いながらも、現状維持のために、補液だ、経管栄養だ、なんだかんだと家族の求めるまま処方している自分がいます。正直イヤですが。

横浜地裁のルールにそって考えれば、
1 処置を続ける限りは人生の終わりとも言えず、
2 意思疎通ができないので、耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいるとも言えず、
3 自発的な意思表示もできないので、寿命の短縮、今すぐの死を求めていると言えず、
4 肉体的苦痛の有無も確認できず、何を用いれば緩和するのか不明
といったところで、いわゆる積極的安楽死は適応にならないでしょう。


老人が大量に増えていて、いちいち刑事訴追していたらキリがないこともあってか、最近は老衰などでは、合法的に治療行為を絞って死にいたるプロセスが定められています。国がおすすめしているのは、本人や家族が「人生会議」を開いて延命処置を行うかどうかなどを決めておき、必要なときにはそのように対応するというものです。

そうはいっても、シビアです。
息子「親父、うちはカネがない。安い特養は空いてないし、かといってサービス付き高齢者住宅に月20万も払えない」
長女「寝たきりで、栄養剤を流してウンコにして出すだけの生活に20万は無理ね」
孫 「おれも東京の大学に行きたいんだよ。20万あればそっちに使ってよ」
本人「わかった、俺が倒れたら余計なことはしないでそのまま死なせてくれ」

こんな話を経て、押し切られたとしても、本人の「意思」は「意思」ですよね。また、ひとたび意思が決まったとしても、脳梗塞や脳出血でコミュニケーションが取れなくなったら、もう家族が適当に「元気なころの本人の意志」をでっちあげることもできます。

生きていれば年金が入る老人もまだいますし、なれの果てになっても高額療養費制度だの、医療介護通算制度を使ったり、世帯分離したりなどのテクを駆使すればほとんど自腹も切らずにすむこともあり、まあ本人の意思なんて尊重されるわけがありません。

ましてや、施設や医療機関も商売ですから、早く死なれるとその分売上が減ります。どんな格好でも生かして、公的制度から搾り取れるだけ搾り取るのが常です。
「安楽死」なんて誰が好き好んでやるのか、という現状を知っておく必要があります。



●神経難病

とくに神経難病の方は、体を自由に動かすことすらできない方も多くいますから、自分で死ぬ事が出来ません。ナースが痰を吸引しなければ、1週案も持たずに窒息死でしょうが、訪問看護だの障害福祉系のサービスが入っていれば、痰をつまらせて死んだとあらば、保護責任者遺棄致死だの業務上過失致死だのに問われるでしょう。

わたし個人としては、かつてALSやギラン・バレーの患者さんの入院主治医をやったり、在宅でフォローしていたこともあったので、彼らが「生き地獄」というのも少しはわかります。「将来の医学に期待して長生きすれば」だなんて、外野がいうのがいかに無神経な夢物語かとも思います。生きていることすら苦痛というのは、なんともできないからです。


●わたしの立場

私個人としては、神経難病などで「日々生きていることすら苦痛だ」という方には、横浜地裁の要件はそれはそれとして、一服盛るなり、注射一発してあげて、楽になってもらったらいいと思っています。ただまあ、わたしも家族がいる身なのでそう簡単にも行きません。バレると医師免許がなくなるばかりか、訴追されれば家族ともども路頭に迷いますからね。

難病の方は生活も困窮していたり、雀の涙の障害年金で生きていたりするので、キリコ先生みたいに「安楽死は500万」なんてふっかけても支払えないでしょう。ヤバい仕事とは思いませんが、訴追されてプーになるリスクを背負うのに、まったくのボランティアではやってられません。

となると、介護の場面でそれぞれのプレイヤーがすこーしずつ、やるべき事をやらずに寿命が縮むやり方を工夫することが求められます。ケアマネや相談支援専門員、訪問看護、介護士、ヘルパーなどが「裏・サービス担当者会議」を開いて、どこまでやるか、ってのを決めるのがいいのでしょうが、証拠が残ってしまいます。困りましたね。

一つ一つはしょぼい役でも、組み合わせることで「数え役満」になって安楽に逝けるようなテクニックを示した、教科書がわりに役に立つブログ記事がかけたらいいと思っています。みなさんも知恵がありましたら、ご教示いただければ幸いです。