病院の患者でいう痰は、道行くオヤジが「カーッ、ペッ」と道路に吐いているような、ネバネバした唾液ばかりとはかぎらない。呼吸器系にたまる液状の物体のことを広く「痰」と読んでいる。
唾液が気管や肺に落ちてたまったもの、心不全や腎不全による肺水腫で肺胞から染み出してきたような血液中の水分、はたまた下気道感染で生じた白血球と病原体の死骸など、ひとくちに痰といっても意味はさまざまである。
いずれにせよ、挿管して人工呼吸管理をしている患者だと、定期的に痰を吸引しなければならない。
気管がちくわだとすると、挿管だとその中にストローを入れたイメージになる。ストローが人工呼吸器につながるわけだ。ちなみに筆者はちくわにきゅうりを挿したものが好物である。
そのままだとストローとちくわの内壁に隙間ができる。これだと空気が漏れて換気がままならないので、カフ(風船)で密着させて空気の漏れを抑えるような仕組みになっている。カフの上が口、下が肺につながる。
口からたれてきた唾液がカフの上に溜まり、気管との隙間をたれて肺の方に落ちていって咳が出たり窒息することもある。カフ上吸引と言って低圧で痰を持続吸引してくれるマシンは以前からあったが、カフの下からも痰を持続吸引してくれるマシン(こういうすぐれもの)も最近世に出た。開発費も自腹だろうし、バカ売れする商品でもないのに患者さんのためを思って開発された先生方には頭が下がる。
とカフ周辺の痰を吸引するのはわりと簡単だが、問題は痰が出てこない患者さんだ。気管支の奥深くに詰まっている痰をどう取るか。咳嗽反射で悶絶しようとも、苦しいが声が出せないので殴られたり蹴飛ばされたりしようとも(ふつうは鎮静をかけているのでこうはならないが)、うりゃうりゃうりゃーと吸引チューブを奥までつっこみ、引ける限りの痰を吸引してくる。鬼吸引とわたしは勝手に呼んでいる。ごめんなさいね、痰で死ぬよりマシだろうけどつらいよね…と念じつつ、ひたすら吸引。肺や気管の酸素まで吸引されて酸欠になるので、吸引と酸素投与をサンドイッチにして時間をかけて吸引する。吸引圧で粘膜から出血して血痰が出たり、血まみれになることも稀ではない。ちょうどそのへんで面会の家族が来ると、我々は非道なことをしているように思われて悪しざまに言われる。(というか、うちは田舎の病院なので面会時間外でも関係なしに患者家族が面会に来てしまう)
ここまでしても痰が引けない、酸素飽和度が上がらないという人には気管支鏡を突っ込んで痰を吸引してくることになる。気管支鏡はそれなりに太いため、届く範囲もしれているので、理学療法士さんに泣きついて肺の奥から痰が出てくるように体位ドレナージをしてもらったり、RTXという怪しいマシンなどを駆使して排痰を試みるが引けないものは引けない。
「気管切開はどうですか」と患者さんの家族に言われたこともあるが、吸痰という作業がいくらか楽にはなるが、気管に穴をあけたからといって、溢れ出てくる痰の量が減るわけでもないので根本的には大した意味は無い。
そもそも痰の原料は体の水分なのだから、体液量を減らしてしまえという理屈もある。補液を絞って利尿をかければたしかに水分は減るので痰は減るが、血圧が下がったり血栓・塞栓が出来たりするので、もはや治療とはいいがたい状態になってくる。そもそも高齢者で心臓がへたって心不全となると、切れるカードもほとんどない。循環器内科に相談しても、「寿命ですよねえ」とつれない返事がかえってくる。
こうなってくるともうお手上げである。痰で窒息死することが避けられませんよ、という厳しい話を家族にする。
酸素化が悪くなると、家族の希望でNPPVをつけたりする。適応という意味では微妙だが、心不全の治療ということで保険を通す。これで呼吸はいくらか楽になるが、平たく言うと圧力をかけて酸素ガスを肺に押し込む機械なので、痰がどんどん肺に詰まっていく。やがて痰が詰まって換気ができなくなり、天に帰ることになる。
痰が多い高齢者が病院から出されたらどうなるか。研修を受ければ介護士でも吸痰ができるようになったとはいえ、まだレアな存在だし、なかなか受け入れてくれる施設も多くない。そうした施設は当然コストが高く、家族の負担も厳しい。家に連れて帰ったら、24時間の吸痰を覚悟しなければならない。痰が詰まって死んだら異状死で警察を呼ばれるかもしれないなど悩みは尽きない。まあ警察がらみは在宅診療の先生がうまいこと処理してくれることが多いので、あまり心配しなくてよいのだが、気苦労としてはたいへんわかる。
退院した後を見越してやむなく早めに枯らしたいと思ったら、入院中に、①水分制限を医者に頼んで循環不全を期待、②NPPV装着で痰づまりによる窒息を促す、といった展開があるのかもしれない。