2015年5月29日金曜日

「尊厳死」の6パターン

2015年5月28日に、日本病院会が-「尊厳死」-人のやすらかな自然の死についての考察―を発表した。

いつまで経っても国会が尊厳死法を制定できずにいることを苦々しく思ったようで、現場で困っている臨床医や患者さん、家族に対しての一助になればということらしい。ありがたいと思うが、これに準拠したからといって、別に司直の手から逃れられるわけでもないと思うが、偉い人達が集まってこうしたペーパーが世の中に出されているのなら警察・検察も少しは考えてくれるかもしれない。

内容を見てみよう。

・ 延命について以下の例のような場合、現在の医療では根治できないと医療チームが判断したときは、患者に苦痛を与えない最善の選択を家族あるいは関係者に説明し、提案する。
ア)高齢で寝たきりで認知症が進み、周囲と意志の疎通がとれないとき
イ)高齢で自力で経口摂取が不能になったとき
ウ)胃瘻造設されたが経口摂取への回復もなく意思の疎通がとれないとき
エ)高齢で誤飲に伴う肺炎で意識もなく回復が難しいとき
オ)癌末期で生命延長を望める有効な治療法がないと判断されるとき
カ)脳血管障害で意識の回復が望めないとき

まあ、これらはどうみても寿命といえるのではないか。理解も得やすいはずだ。病院に来れば無限の生命を得るかのように考えて、我々に無理難題を言ってくる家族もいる。そうなると、あまり話したくはないけれど、「野生動物の世界ではメシが食えなくなったり、立って歩けなくなったら生命として終わりですよ」という話をする。ただ「アフリカのサバンナと病院を一緒にするな」とか怒られたことはまだない。逆に「大声を上げてる人(注:認知症)とかもいるし、たしかに病院って動物園みたいなものですかね」と納得されたりもする。

月末なのでレセプトをチェックしていたのだが、誤嚥性肺炎の患者が8万点ぐらいになっていた。実に月80万円。ベッドに寝たきりで、意思疎通も図れず、日に3度、胃ろうから栄養剤を注入されるだけの高齢者。介護施設から救急搬送で来て、治療して良くなったもののMAXでここまでしか回復はしなかった。転院先を調整しているが、なかなか行き場もないので在院日数が長引いてこうした顛末になっているわけだが、健康保険の保険料をどれだけ上げてもこうした人たちの医療費までめんどうみていたらカバーできそうにない。ちなみに自己負担は44400円だそうだ。差額の75万は若い人たちが払うのだ。国保だから介護保険と通算して年末にはキャッシュバックがあるとも聞く。

こうした人達が「家族の希望」でいたずらに延命処置を求められる背景には、年金があると思う。家族が面会に来ない高齢者は結構多いと感じる。死んでしまえば年金がストップされるので、病院や施設に放り込んでひたすらに延命処置を求められる。直接会いに来るわけでもなく、電話で言われる。面談しようと連絡してもワン切りされたり、着拒されるのもしばしばだ。

上記のように、自己負担があるといっても年金が入ればプラスなのだから、ゴネてなるべく長く入院させ、楽して年金をもらってしまえ、という腹の内なのか。それなら入院したら年金を一時的にストップしたらどうなのだろう。全国的に巨額の医療費が節約できそうだ。じゃあ介護施設に流れるだけだというのなら、施設に入っている間も年金を止めたらどうだろう。プロの介護が必要なら、年金から天引きで。

さて、先のア~カの6種類に該当しても直ちに医療が打ち切られるわけではない。生きてさえいれば、急性期病院→慢性期病院→老健→特養→在宅→・・・など、段落とし的にいろんな施設を通過することになって、医療費や介護費用がかかる。が、「そこにも雇用が生まれるから、高齢者は長生きしていればいいのだ」と偉そうにいう気にはなれない。自分の給与明細をみたら、年金・健康保険・介護保険・税金で半分も持っていかれていた。五公五民で江戸時代と同じではないか(我々世代が多分もらえない年金など、税金と同じだとして)。これに子どもの教育費だの通勤で使う車の維持費だのを払ったらカツカツである。自分はもう若くもないけれど、若い人の血をすすって老人を生かすというのもそろそろ限界だと実感している。


 ・ 下記の事例はさらに難しい問題で、今回は議論されなかった。
ア)神経難病
イ)重症心身障害者 

ALSなどは団体が相当に手強いので、アンタッチャブルではある。患者さんが心身ともに苦悩されているのは本当に気の毒に思う。ただ、障害者のためというよりも関係者のためではないかと思うような活動もしばしばである。おっと、筆者もひどい目に遭ったことがあるので言を慎む。

霞ヶ関の厚労省ビルの前で炎天下でも障害者を車いすに乗せて並べ、マイクでがなってビラを撒いているような団体とかを見るとなんとも複雑である。



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